古代教会の信仰の要点 《信仰・宗教・歴史》
決める全地公会議がニカイア、コンスタンティノープル、カルケドンなどで7回にわたって開かれた(325~787)。
決められた内容は、キリストは人間を救うためにこの世に生まれた完全な神であり、完全な人間であり、その二つの性、神性と人性は区別することなく離れることがないという主旨であった。
いくつかの説が異端とされた。父なる神と子なるキリストの同質性を否定したアリウスの説はニカイア公会議で、キリストの人性を重視したネストリウスの説はエフェソス公会議で、逆にアレクサンドリアの神学者たちの、神性を重視するキリスト単性論はカルケドン公会議で異端とされた。
また、コンスタンティノープル総主教を中心とする教会内部では、8~9世紀に聖像破壊運動(イコノクラスム)が起こり、結局、聖画像の破壊を異端とすることに決まった。
東西両教会の間では政治的にも溝が生じた。教皇レオ3世によるフランク国王カール大帝の戴冠(たいかん)(800)は、ローマ皇帝権に対する反逆ともいうべき事件であった。
また、コンスタンティノープルではフォチウスが一外交官から一挙に総主教に選ばれたため、ローマ教皇ニコラス1世が反発した。教理上の争いもあった。聖霊(神)の発出をめぐって「ニカイア信条」の「父より」に、ローマ側が「および子より」(フィリオクェfilioque)を付加したことに対して東側が非難した。
また、聖職者の結婚禁止やイースト菌を入れない除酵パンを聖体として使用することなど、ローマ側の慣行に対して東側が反対した。
これらが重なって、1054年ごろから古代教会は東西に分裂し始めて、1204年に、第4回十字軍の西欧兵士がコンスタンティノープルを攻撃したときから、西は西方カトリック教会、東は東方正教会となった。西側のキリスト教がビザンティン帝国に敵対するようになり、両教会の対立はいっそう深まった。
1453年にコンスタンティノープルはオスマン帝国に滅ぼされ、コンスタンティノープル総主教下の東方正教会は、19世紀なかばにギリシアがトルコから独立するまでの約350年間、トルコの支配下に置かれた。
こうしてビザンティン帝国がトルコの支配下にあった間、ロシアがかわって正教の大保護国であった。
決められた内容は、キリストは人間を救うためにこの世に生まれた完全な神であり、完全な人間であり、その二つの性、神性と人性は区別することなく離れることがないという主旨であった。
いくつかの説が異端とされた。父なる神と子なるキリストの同質性を否定したアリウスの説はニカイア公会議で、キリストの人性を重視したネストリウスの説はエフェソス公会議で、逆にアレクサンドリアの神学者たちの、神性を重視するキリスト単性論はカルケドン公会議で異端とされた。
また、コンスタンティノープル総主教を中心とする教会内部では、8~9世紀に聖像破壊運動(イコノクラスム)が起こり、結局、聖画像の破壊を異端とすることに決まった。
東西両教会の間では政治的にも溝が生じた。教皇レオ3世によるフランク国王カール大帝の戴冠(たいかん)(800)は、ローマ皇帝権に対する反逆ともいうべき事件であった。
また、コンスタンティノープルではフォチウスが一外交官から一挙に総主教に選ばれたため、ローマ教皇ニコラス1世が反発した。教理上の争いもあった。聖霊(神)の発出をめぐって「ニカイア信条」の「父より」に、ローマ側が「および子より」(フィリオクェfilioque)を付加したことに対して東側が非難した。
また、聖職者の結婚禁止やイースト菌を入れない除酵パンを聖体として使用することなど、ローマ側の慣行に対して東側が反対した。
これらが重なって、1054年ごろから古代教会は東西に分裂し始めて、1204年に、第4回十字軍の西欧兵士がコンスタンティノープルを攻撃したときから、西は西方カトリック教会、東は東方正教会となった。西側のキリスト教がビザンティン帝国に敵対するようになり、両教会の対立はいっそう深まった。
1453年にコンスタンティノープルはオスマン帝国に滅ぼされ、コンスタンティノープル総主教下の東方正教会は、19世紀なかばにギリシアがトルコから独立するまでの約350年間、トルコの支配下に置かれた。
こうしてビザンティン帝国がトルコの支配下にあった間、ロシアがかわって正教の大保護国であった。
update:2010年01月31日
